北朝鮮1000Won100枚束10万ウォン帯封 金日成 生家万景台2006年版
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北朝鮮のウォン(朝鮮民主主義人民共和国中央銀行発行)は朝鮮人民のみの流通に限定されており外国人が使用できないが、1997年から羅先に限って1ドル=2.16ウォン(金正日総書記の誕生日2月16日に因む。のちに200ウォン程度まで下げている)の固定相場を設定し、これが唯一の公式な両替として認められている。ただし実際には闇両替取引も存在し、その相場は物価などから推定された、公式相場をはるかに下回る、最近の経済難の深刻化が反映された相場で行われている。
いずれにしても、同じく「ウォン」と称する韓国の通貨(大韓民国ウォン)とは、まったくレートが異なる。さらに北朝鮮では、ウォンの下にチョンという補助単位が存在し、1ウォン=100チョンとなっているが、近年の急激なインフレによりチョンは実質機能していないとされる。
2009年11月30日、北朝鮮政府はデノミネーション(デノミ)を実施した。旧通貨と新通貨の比率は100対1となる。隠し資産の発覚を恐れた市民が、人民元や米ドルへの両替を求めて闇市場に殺到、大混乱に陥った。
外貨流通の突然の停止と物資の絶対的不足により、北朝鮮の市場は閉鎖され、商品の流通は麻痺状態に陥り、デノミの直後からハイパーインフレーションになった。新ウォン価値はデノミ実施2ヶ月で10分の1以下になったようである。
2010年2月5日、北朝鮮の金英逸首相は、平壌人民文化宮殿において、人民班長などに対し今回の貨幣改革で、準備や情勢判断の不備と人民に苦痛を与えたことについて異例の謝罪を行い、誤った措置を是正する意向を示したといわれる。
1997年以降の羅先を除けば、北朝鮮のウォンはあくまで現地人のみが使用する通貨であり、北朝鮮を訪れた外国人に関してはかつては兌換ウォン(外貨兌換券。朝鮮貿易銀行発行。通称: パックントン)が発行されていたが、2002年7月に外国人との取引は外貨を北朝鮮内で直接流通させる方法に切り替えられ、外国人の使用する兌換ウォンは廃止された。北朝鮮内で流通される外貨は公式にはユーロであるが、開城工業団地での北朝鮮従業員への給与や開城、金剛山観光地での支払い等では米ドルによる決済が行われ、また各地の市場では人民元、米ドル、日本円も流通しているのが実情である。2009年11月30日のデノミネーション実施以降、外貨の流通が全面禁止され、外国人も直接北朝鮮ウォンで支払うようになった。ただし、開城工業団地においては、現在も米ドルが流通しているようである。
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
正面は、急死金正日の父親の金日成肖像です 。
金 日成(キム・イルソン、김 일성、1912年4月15日 – 1994年7月8日)は、朝鮮半島の抗日運動家・革命家で、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の政治家、軍人。1948年から1972年までは同国の首相であり、1972年から 1945年10月10日、平壌に朝鮮共産党北部朝鮮分局が設置され、12月17日に金日成が責任書記に就任した。しかし金日成は、アメリカ統治下の南部に拠点を置き、朴憲永に率いられている朝鮮労働党からの離脱を目指していき、1946年8月28日、朝鮮共産党北部朝鮮分局を改組して北朝鮮労働党を創設した。
ソ連占領下の朝鮮半島北部では、暫定統治機関として1946年2月8日に北朝鮮臨時人民委員会が成立し、金日成がソ連軍政当局の後押しを受けて、委員長に就任した。翌年2月22日には北朝鮮臨時人民委員会は半島北部の臨時政府として北朝鮮人民委員会に改組され、金日成が引き続き委員長を務めた。
このように、金日成はソ連当局の支援を受けて北朝鮮の指導者となっていったが、金日成派は北朝鮮政府および北朝鮮国内の共産主義者のなかでは圧倒的な少数派であり、弱小勢力であった。この点は、1970年代に至るまで金日成を苦しめた。金日成個人が信任できる勢力が弱小であることは、初めは絶え間なく党内闘争を引き起こしては勝ち抜かなければならない要因となり、後には大国の介入に怯えなければならない要因となった。
ソ連は朝鮮半島の統一を望まず、アメリカもまた朝鮮半島の分断を容認した。1948年に入り、アメリカ占領下の南朝鮮で単独選挙が実施され、8月15日に大韓民国が成立すると、ソ連占領下の北朝鮮でも国家樹立への動きが高まっていった。9月9日、朝鮮民主主義人民共和国が建国され、金日成は首相に就任した。さらに翌年6月30日、北朝鮮労働党と南朝鮮労働党が合併して朝鮮労働党が結成されると、その党首である中央委員会委員長(1966年10月12日より総書記)に選出された。
1950年6月25日、北朝鮮軍は38度線を越えて南側に侵攻し、朝鮮戦争が始まった。北朝鮮軍の南進の理由については諸説あり、スターリンの指示によるものであったという説、朝鮮人民軍の一部が暴走して始まったとする説、金日成自身の指示があったとする説がある。一説には「戦争がおこれば南朝鮮の国民が雪崩をうって立ち上がり、祖国統一が達成される」と南朝鮮労働党から聞かされていたとされる。
当初、北朝鮮軍が朝鮮半島全土を制圧するかに見えたが、朝鮮人民軍は侵攻した地域で民衆に対し虐殺・粛清などを行ったため、民衆からの広範な支持は得られず期待したような蜂起は起きなかった。9月15日、アメリカ軍が仁川上陸を開始すると、一転して敗走を重ねるようになった。開戦直後の7月4日に朝鮮人民軍最高司令官に就任していた金日成は、自分の家族(祖父母、子供2人(金正日・金敬姫兄妹)[16])を疎開させた後、10月1日には部下に戦争の指揮を任せ、自らも逃亡した。
その後、中華人民共和国が中国人民志願軍を派兵してきたことによって戦局は膠着状態に陥る。その頃南側では、金日成が行方不明になったので「平壌で戦死してしまった」とか「事故死して影武者が立てられた」とする噂が立ったが、1953年6月の休戦後、何食わぬ顔で平壌に帰還した。
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』