¥真作保証¥山下大五郎10号三越個展出品作☆名鑑650万名画


¥真作保証¥山下大五郎10号三越個展出品作☆名鑑650万名画



◆美術名鑑では1号あたり65万円という評価を得ています。10号サイズなので650万円となります。 ◆本作は、昭和38年日本橋三越で開催された「山下大五郎油絵展」に出品された最高の来歴を誇る名品です。◆栗と柿のモチーフを、巧みな構成と色彩感覚で、鋭角的な描写により生き生きと映し出してきました。デフォルメされた対象のユーモラスな姿が、憂愁を帯びた素朴な味わいを感じさせます。特徴的な激しいタッチとナイフで削り落とした筆触は、モチーフへのピュアな思いを代弁し、人間味溢れるマチエールで鑑賞者の深層にまで深く入り込んできます。また、無彩色の中に時折現れる色彩が画面にアクセントを付け、ドラマチックな場景を創出しています。網の目のように張り巡らされたスクラッチは、掲載した画像では潰れてしまい、その細かさや繊細さをお伝えできません。是非この機会に実物を間近でご覧になることをお勧めします。山下大五郎 「栗と柿」 M10号 額サイズ55×72cm キャンバスに油彩 右下にサイン 裏にタイトル・サイン 作品コンディション概ね良好山下大五郎は、明治41(1908)年10月2日、神奈川県藤沢市に生まれる。後に洋画家となった原精一が近くに住んでおり、早くから親交があった。また、神奈川県立湘南中学校在学中に萬鉄五郎宅に出入りし、学ぶところがあった。大正15(1926)年同中学を卒業して東京美術学校師範科に入学。同校在学中は田辺至に師事し、また先輩である林武に指導を受け、昭和3年第9回帝展に「卓上静物」で初入選する。同4年、東美校を卒業し、神奈川県奈珂中学校(現県立秦野高校)で教鞭をとる。官展にはたびたび入選を重ねていたが、同12年第1回新文展に「中庭の窓」を出品して特選、同14年第3回同展では「おもて」で再び特選を受賞し、同17年第5回展には無鑑査出品している。また、同16年第1回創元会に「早春」「家庭風景」を出品する。同19年歩兵補充兵として召集され、終戦後3年間、カスピ海沿岸で俘虜生活を送った後、同23年に帰国する。戦後は官展、創元会を退き、牛島憲之、須田寿らと立軌会を結成して同展を中心に活動する。初期から風景を多く描いたが、戦後しばらくは暗い鉄条網の中の俘虜をモチーフとし、その後、農村を描き始める。同28年第4回選抜秀作美術展に「開懇地風景」を招待出品、同33年第2回国際具象派展に「工場のある風景」「北海道(白老)風景」を出品するなど、立軌会以外でも作品の発表を行なった。同39年、中間冊夫、島村三七雄、原精一ら林武門下の友人達と欅会を結成する。同52年第16回展より国際形象展にも出品を続ける。この頃から安曇野の風景を描き始め、同54年「安曇野田植え」が長野県信濃美術館に買上げられたほか、同58年には立軌展35周年記念展出品作「安曇野春風」で第7回長谷川仁賞を受賞、同60年にその受賞記念展が銀座日動画廊で開かれた。また、平成2年3月、東京セントラル美術館で「日本の叙情詩 山下大五郎回顧展」が開かれ、萬鉄五郎の影響の認められる初期の作品から、日本の風景にとりくんだ長い画業が跡づけられた。その画風は、当初から構成力やマチエールへのこだわりを見せ、実景写生から離れた知的な制作態度をうかがわせるが、安曇野風景に至って、従来の試みが融合した清らかでみずみずしい画境が開かれることとなった。昭和62年『山下大五郎画集』(日動出版)が刊行されている。平成2年没。明治41年神奈川県藤沢市出身
神奈川県立湘南中学校在学中に萬鉄五郎宅に出入りする
大正15年同中学を卒業して東京美術学校師範科に入学
田辺至に師事
林武に師事
昭和3年第9回帝展に「卓上静物」で初入選
昭和4年東京美術学校卒業
神奈川県奈珂中学校(現県立秦野高校)で教鞭をとる
昭和12年第1回新文展に「中庭の窓」を出品して特選
昭和14年第3回同展では「おもて」で再び特選受賞
昭和17年第5回展には無鑑査出品
昭和19年19年歩兵補充兵として召集
終戦後3年間、カスピ海沿岸で俘虜生活を送る
昭和23年帰国
昭和24年牛島憲之、須田寿らと立軌会を結成
昭和28年第4回選抜秀作美術展に「開懇地風景」を招待出品
昭和33年第2回国際具象派展に出品
昭和39年中間冊夫、島村三七雄、原精一ら林武門下の友人達と欅会を結成
昭和52年第16回展より国際形象展にも出品
昭和54年「安曇野田植え」が長野県信濃美術館に買上


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