真作保証 岡本太郎3号鑑定済代表画題傑作 生誕100年展覧会古径額
私共が以前、出品致しました作品が昨年に放送されました「開運!なんでも鑑定団」に登場し、450万円という高額のハンマープライスを記録致しました(ヤフオクでの落札のなんと5倍以上)。同番組でもネットオークションについて触れられておりました。私共が出品致しました作品が同番組で取り上げられるのはこれで2回目です(前回は8倍の600万円のハンマープライス)。また、先日出品致しました作品が美術館に所蔵されました。今後とも素晴らしい作品を出品致しますのでご期待ください。(出品中の画家とは別の画家の作品です。)先日、以前私共が出品致しました西村計雄画伯の作品が、ご遺族が運営されています美術館に所蔵されました。同作は、異国の地パリで画伯が初めての個展を開催した際に出品された作品で、美術館には下絵とポスターしか残っておらず、まさに幻の一枚でした(私共でもかなり初期の貴重な作品と推定しましたが、まさかこれほど歴史的な個展に出品された作品とは夢にも思いませんでした)。ご遺族も作品に対面し大変感激されておりました。お近くにお越しの際は、画伯のアトリエも大切に残されております美術館に是非お立ち寄りください。美術館の詳細をご覧になりたい方はここをクリック最近、購入意志のない落札、いやがらせを目的とした評価が多発しております。新規および過去に取り引きのない方は、入札を取り消させて頂く場合がございます。参加ご希望の方は、ご連絡下さい。オークション終了後、弊社からは取引ナビより連作させて頂いております。それ以外からメールを送信することはございませんのでご注意ください。本作は、古径による額装です。本作は、美術館鑑定済みです。私共が所蔵する岡本太郎作品は、すべて美術館の鑑定を通った作品です(個人の方の鑑定依頼は受け付けていません)。近年一番話題の展覧会となった「岡本太郎、生誕100年」を記念しての出品です。昨年、美の殿堂・東京国立近代美術館で「生誕100年 岡本太郎展」が大々的に開催されました。詳細をご覧になりたい方はここをクリックここをクリック岡本太郎は、1911年(明治44年)神奈川県橘樹郡高津村に、漫画家の岡本一平、歌人で作家・かの子との間に長男として生まれる。父一平は太郎誕生後、夏目漱石の勧めで朝日新聞社に入社し、漫画散文という独自のスタイルを築く。そして世間から「宰相の名は知らぬが、岡本一平なら知っている」と言われるほどの人気を博す漫画家となるが、江戸っ子気質で、付き合いのために収入のほとんどを飲んでしまうほどの放蕩ぶりに、時には家の電気を止められてしまうこともあった。一方母かの子は、二子の大地主・大貫家の長女として乳母日傘で育ち、若い時分より創作に没頭。 お嬢さん育ちで世間知らずの芸術家であり、一般的な家政や子育てが全く出来ない人だった。太郎が3~4歳の頃、かまって欲しさに創作の邪魔をすると、かの子は兵児帯で箪笥にくくりつけたというエピソードが残っており、後に太郎は「母親としては最低の人だった。」と語っている。そんな家庭環境の中、 持って生まれた資質に加え、 一般的な家庭の躾を全く受けることがなかったが、1917年4月、東京青山にある青南小学校に入学するも、環境に全くなじめず、追い出される形で一学期で退学。その後も私塾・日新学校、十思小学校へ転校を繰り返した。その後かの子の希望もあり、慶應義塾幼稚舎に入学し、寄宿舎生活に入るが、そこでようやく太郎の理解者であった教師、位上清に出会う。また周囲の人気者であったが、当時の成績は52人中の52番であった。ちなみに一つ上の51番は、後に国民栄誉賞を受賞することになる歌手の藤山一郎である。父が漫画家だった事もあり、幼少より絵を好んで描き続けたが、中学に入った頃から「何のために描くのか」という疑問に苛まれ、悩み続けた。慶應義塾普通部を卒業後、画家になる事を躊躇いながらも、東京美術学校へ進学した。父一平がロンドンで開催される軍縮会議に朝日新聞から特派されることになり、美術学校に入学したばかりの太郎も「絵の修業ならパリで」ということで、親子三人に青年二人を加え渡欧。一家は1929年に神戸港を出港し、上海・中東・イタリア・フランスなどを歴訪。1930年1月にパリに到着し、以後約10年間滞在する。フランス語を勉強するためにパリ郊外の中学の宿舎で生活。語学の習得は早く、半年後にはパリ大学ソルボンヌ校で学ぶようになる。太郎は以前から感じていた「何のために絵を描くのか」といった美や芸術、自己に対する根本的な問いや、既成芸術への疑念を追求すべく、マルセル・モースのもとで、哲学・社会学・精神病理学・民俗学など、インスピレーションを得るべく絵とは直截関わりのない学問を学んだ。1932年、両親が帰国。パリで両親を見送るが、かの子は太郎の帰国を待たずに1939年に逝去。このパリでの告別が太郎とかの子との今生の別れとなる。芸術への迷いが続いていたある日、偶然立ち寄った画廊に展示してあったピカソの抽象絵画を見た太郎は強い衝撃を受ける。そして「ピカソを超える」事を決意し、以後抽象芸術に道を求め、創作に打ち込む。1940年、太郎はドイツ軍のパリ侵攻と同時に日本へ帰国する。帰国後、滞欧作「痛ましき腕」などを二科展に出品、二科賞を受賞し、個展も開く。1942年、出征。中国戦線へ派遣されるが、32歳という年齢に加え、酷暑地での厳しい訓練、また西欧帰りで、アジアの小さな島国が大国と戦争など無謀であり、負けるに決まっていると信じていた太郎にとって、この4年に及ぶ兵役生活はまさに絶望的であった。そして敗戦を迎えた。太郎は1年間の捕虜生活を経て日本に帰国したが、戦争で青山の自宅にあったすべての作品が焼失したことを知る。その後世田谷の上野毛にアトリエを構え、制作に没頭。1947年、太郎は新聞に「絵画の石器時代は終わった。新しい芸術は岡本太郎から始まる。」と発表。旧態依然としていた当時の日本美術界との闘いを宣言した。1948年、 花田清輝と発起人になり、文学と美術の前衛芸術を研究する「夜の会」を結成。会名は太郎の油彩画「夜」から取られ、埴谷雄高、安部公房らが参加している。またこの頃、平野敏子(後の岡本敏子)と出会う。彼女は後に秘書・養女となり、彼の創作活動を陰日向に支え続けた。1951年、偶然立ち寄った東京国立博物館に展示されていた火焔型縄文土器の芸術性の高さに衝撃を受ける。この衝撃を翌年「縄文土器論」として発表。これをきっかけに縄文文化と同じく、今まで注目される事が少なかった沖縄や東北等の文化・伝統に、純粋な日本の姿を見いだし、再評価に努めた。1954年には、青山に友人の建築家、坂倉準三の設計による自宅兼アトリエを建て、ここを生活と制作の拠点とし「燃える人」等の作品を生み出した。同年、当時の光文社社長、神吉晴夫から、中学1年生にも理解できる芸術啓蒙書の執筆を依頼され、「今日の芸術 時代を創造するものは誰か」を刊行。既成芸術への痛烈な批判と、芸術は手先の問題ではなく、生活が土台にあると宣言し、(当時としては)衝撃的な著書は若い読者たちの心をつかみ、ベストセラーになる。1970年に大阪で万国博覧会が開催されることが決まり、主催者はシンボル・タワーの製作担当の人選に迷った末に太郎に依頼することにした。太郎は依頼を承諾し、「とにかくべらぼうなものを作ってやる」とひたすら構想を練った。太郎がこの前衛的な塔に込めたのは、文明の発達や進歩の中で、人々の生活も豊かになるのに反比例し、心がどんどん不自由になり貧しくなっていく現代社会への、彼なりのアンチテーゼであった。また、「国の金を使って、あまりにも岡本太郎的なものを造った。」という批判に対しては、太郎は「個性的なものの方が普遍性がある」と語っている。また、主催者側が「人類の進歩と調和」というテーマに基づき、塔の地下に人類の発展に寄与した偉人の写真を並べるつもりだったのに対し、「世界を支えているのは、無名の人たち」と、世界中の人々の写真や民具を並べるように進言した。こうして日本万国博覧会は、大きな成功を収めた後に閉幕。1975年に永久保存が決まり、この前衛的な塔も大阪のシンボルとして人々に愛され続けることとなる。70年代以降は、芸術や民俗学のみならず、テレビなどにも進出。日本テレビのバラエティー番組、「鶴太郎のテレもんじゃ」にレギュラー出演し、冒頭でリヒャルト・シュトラウスの『ツァラトストラはかく語りき』の鳴り響きドライアイスの煙の立ちこめる中から太郎が異形の面貌で、 「芸術は爆発だ」「何だ、これは」と叫びながら現れる演出が人気を博し、流行語にもなった。番組内で出演した子供たちの絵を批評し、お眼鏡に適う作品を見出した際には、目を輝かせた。またこの番組内で共演した片岡鶴太郎の芸術家としての才能を見出している。1987年にはテレビドラマにも出演。NHK「ばら色の人生」に俳優としてレギュラー出演。バラエティー番組とはひと味違った、自然な演技が好評を得た。老いを重ねても創作意欲は衰えず、個展など精力的な活動を続けていたが、80歳のときに太郎が所蔵するほとんどの作品を川崎市に寄贈。市は美術館建設を計画する。1996年1月7日、以前から患っていたパーキンソン病による急性呼吸不全により死去。享年84。生前「死は祭りだ」と語り、葬式が大嫌いだった太郎に配慮し、葬儀は行われず、翌月2月26日にお別れ会として「岡本太郎と語る広場」が草月会館で開かれる。会場には彼の遺した作品たちが展示され、参加者たちは太郎との別れを惜しんだ。彼の死後、敏子が中心となって、数多くの著作や講演など積極的に活動を展開し、岡本太郎の啓蒙と再評価に尽力した。1998年に、太郎が住んでいた青山の住居兼アトリエ跡に岡本太郎記念館が開館し、1999年には、かねてから計画のあった川崎市岡本太郎美術館が開館。人々は彼が残した数多くの作品を間近に触れる事が出来るようになった。2005年に敏子が79歳で急逝してからは、2003年にメキシコで発見された「明日の神話」を愛媛県東温市で修復し、汐留日テレプラザにて初公開。岡本太郎ブームが再燃する。詳細画家:岡本太郎技法:色紙に墨・水彩サイズ:27×24cm額サイズ:38×42cm サイン:左下にサインコンディション:概ね良好
オークション終了後「取引ナビ」にてご連絡致します。24時間以内にご返信、5日以内にご入金お願い申し上げます。落札金額のみで、消費税は頂きません。着払いを予定しておりますので、落札金額・振込手数料をご負担下さい。配送は作品の大きさ等の都合により私共指定の配送業者になります。本作品は真作ですので、落札後のお問い合わせご質問はご遠慮ください。貴重な作品ですので、オークション終了直前でも、出品取り消しにする場合がございます、御了承下さい。作品保証期間2ヶ月となっております。何かございましたら出品中にご質問ください。梱包は箱のないものは、エアパッキンを巻きダンボールで補強致します。また、画像はデジカメの種類・撮影状況・パソコンの環境・トリミングなどにより現物とそっくりそのままではございませんのでご了承ください。神経質な方のご入札はご遠慮ください。また、額のコンディションに関しましては個別に明記致しません。新作ではありませんし、額に関しては難がある場合があるとご了承ください。また、マット部分の対比が実物と変わりますことをご了承ください。■新規で入札ご希望の方は事前に質問コーナーよりご連絡先等お知らせください。いたずら入札を防ぐためですのでご理解お願い致します。■販売しているのは絵画そのものです。額・箱(箱付の場合)は絵を保護するための付属品であり、商品ではございませんので保険適用外となります。配送中に破損等ありましても保険は適応されません。額のイタミが画像上反映されない場合があります。ご了承ください。